高橋一生さんを育てた母親の職業は元ホステスと噂です!
なぜそのような噂があるのか気になります。
また、母親が若くして亡くなった死因とは何だったのか、調べてみました!
Contents
高橋一生の母親の職業が元ホステスと言われる理由は!?

高橋一生さんの母親の職業は元ホステスと噂があるようです。
そのような噂がある理由として
・結婚と離婚を複数回している
・港区に住んでいた
・シングルマザー
・経済的に厳しかった
このようなことから、
・銀座のホステスをしていたのでは?
・水商売をしていたのでは?
と、元ホステスという噂が出たようです。
ですが、実際に母親がどんな仕事をしていたのか
高橋一生さんは明かしていないのでわかりません。
ただ、仮に銀座のホステスをしていたとすると、
“むしろ子供をたくさん産んだり何度も結婚したりはしないだろう”という情報もあります。

また、「シングルマザーだから」「結婚・再婚を複数回しているから」という理由だけで水商売やホステスと決めつけるのは早いですね。
子供を授かりやすい体質などもありますから、何とも言えませんが…

高橋一生さんの母親は幼少期に子役としてテレビ出演をしたことがあるそうです。
ですが、母親が出演した番組名や当時の芸名など、詳しい情報は見つからず…
そのため母親の名前や写真などはわかりませんでした。
どうやら女優というよりも子役として短い期間で芸能活動を終えているようです。
芸能界に入っていたことなども考えると、高橋一生さんの母親は美人でモテる方だったのかもしれません。
高橋一生の母親はビジネスウーマン?

元ホステスという噂がある一方で、一部ではバリバリのビジネスウーマンだったという情報もあります。
自分で複数の事業を起こしていたという話も!
ただいつも半年ほどで潰れてしまうそうで、自転車操業経営になっていたようです。
そのため経済的にはかなり厳しかったことと思います。
2度目の結婚をしていた時期が経済的に一番安定していたそうで、当時は赤坂の高級マンションに住んでいたそうです。
当時小学生だった高橋一生さんは、同級生に皇太子の住む「東宮御所(現:赤坂御所)」に勤務する家庭の子がおり、その子たちと遊んでいたそうです。
そのため遊び場は東宮御所(現:赤坂御所)だったようで、顔パスで中に入って遊ぶことができたそうです!
高橋一生の母親はイッセイミヤケで働いてた?

高橋一生さんの母親は元ホステスだけでなく、イッセイミヤケで働いていたという噂もあります。
しかしこの噂はデマ!
母親の好きなブランドが「イッセイミヤケ」だったということでした!
どうやら高橋一生さんのお名前の由来もこのブランドからだそう。
高橋一生さんは母親に名前の由来を聞くと、「唯一を生きる」と言われたそうですが、これは後付けだろうと思っているそうです。
高橋一生の母親は夜逃げした?

高橋一生さんの母親の経営が半年で潰れるということを繰り返し、経済的に厳しかったこと等から、
知恵袋などでは高橋一生さんの母親が夜逃げしたという噂があります。
たしかに、経営破綻などで夜逃げする可能性もゼロではないかもしれません。
ですが、そうなっていれば今の高橋一生さんにも何かしら影響があるはず。
10年以上芸能活動をしていますし、大ブレイクしてからもそのような話題は一切ありません!
衝撃的な過去のエピソードも複数披露していますが、その中に「借金を肩代わりした」という話はありませんでした。
そういったことから、夜逃げしたという事実はなかったのではないかと思います。

高橋一生は祖母に育てれらた?

仕事で不在だったことが多かった母親の代わりに、高橋一生さんの面倒を見てくれたのは祖母でした。
毎週土曜日は必ず祖母の家に行き、ビデオを一緒に見るなどして過ごしていたそうです。
幼少期の頃とても内気で引っ込み思案だった高橋一生さんを心配した祖母は、水泳やピアノ、ドラムにエレクトーンなどいろんな習い事をさせてくれました。
しかしどれも長くは続かず。
ですが習い事の1つとして入った児童劇団で、定期的に行われる発表会を観に来ていた祖母が大喜びしているのを見て高橋一生さんもとても嬉しかったそうです。
その出来事がきっかけで、高橋一生さんは芸能活動を始めることを決意しました。
その後高橋一生さんは
1990年(当時10歳)子役として映画「ほしをつぐもの」で映画初出演を果たします。

1995年にはスタジオジブリ制作のアニメーション映画「耳をすませば」で、ヒロインの相手役・天沢聖司役の声優を担当!
映画の大ヒットに貢献しました。

2004年ドラマ「怪奇大家族」で連続ドラマ初出演を果たし、大河ドラマなど多くのドラマに出演しています。
そして、2015年ドラマ「民王」や2017年ドラマ「カルテット」の出演を機に大ブレイクをしています。

高橋一生さんの祖母は残念ながらすでに他界しています。
しかし高橋一生さんはインタビューで
「尊敬する人は?」という質問に対し「祖母ですね。はい」と即答しています。
とても素敵なおばあちゃんだったことが伝わります。
高橋一生の母親が若くして亡くなった死因も衝撃的!

高橋一生さんの母親は18歳のときに高橋一生さんを出産しています。
高橋一生さんが1980年12月9日生まれですので、母親は1962年生まれ。
出産も若かったのですが、亡くなったのも2015年夏、53歳という若さでした。
高橋一生さんの母親の死因はガンと言われています。
それ以上詳しくは公表されていません。
ただ53歳という若さから考えると、乳がんや子宮がん、卵巣がんなどだった可能性が考えられます。
日本人女性がかかるガンは乳がんが1番多く、9人に1人が患っています。
また、20代~50代の働く世代の女性は男性よりもガンになりやすいと言われています。
高橋一生さんの母親は働き詰めだったようですし、事業でも苦労したようなので
生活や仕事の疲労やストレスが溜まっていたのかもしれません。
ただ皮肉なことに、10年ほど絶縁状態だった高橋一生さんと母親は
病気をきっかけに会えるようになったと話しています。
高橋一生と母の思い出の曲

2019年7月放送の「サワコの朝」に出演した際、思い出の曲の話題をしています。
高橋一生さんの「今でも記憶に残っている曲」は、松任谷由実さんの「水の影」

高橋一生さんが小学校4年生のとき、あるときたまたま母親の部屋にあったカセットテープを見つけたそうです。
それまであまり音楽に触れて来なかった高橋一生さんは、そのカセットテープを見たことも聴いたこともありません。
それなのに、カセットを聴いたとき全部歌えてしまったそうです!
初めて聴いた曲なのに!
こわくなった高橋一生さんは、母親に「すごく怖い!」と話すと母親は
高橋一生さんが生まれる前、お腹の中にいるときから胎教として聴いていた
と教えてくれたそうです。
それからは母親とよく口ずさんだりもしていた思い出の曲であり、この曲を聴くといつも母親のことを思い出すと明かしています。
母親が亡くなる前は、よく一緒に松任谷由実さんの曲を聴きながらドライブしたんだそうです。
母親が亡くなるときにも歌っていたと話していました。
生まれる前からずっとそしてこれからも、高橋一生さんと母親を繋いでくれる一曲なんですね。

高橋一生さんの「今、 心に響く曲」は何かと聞かれると、
ピチカート・ファイヴさんの「陽の当たる大通り」と答えています。
この曲は高橋一生さんの人生のテーマソングだそう。
ワクワクするような、ほんと 人生を予感するような、
こうありたいなと思うような歌詞が たくさん詰まっていて。
もう これは外せないだろうなっていう曲の一つ
と魅力を話しています。
この曲も昔から母親と一緒に聴いていた思い出の曲だそうです。
壮絶な過去や母親との絶縁状態という過去もありましたが、母親との素敵な思い出もたくさんあるんですね。
まとめ
今回は高橋一生さんの母親について調べてみました。
・元ホステスの噂は経済的なことや結婚を複数回していることから出た噂
・実際にどんな仕事をしていたかはわからないが、事業を起こしていたという話もある
・母親の死因はガン
今後また高橋一生さんが何か母親について話す日がくるかもしれませんね!